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雀庵のブログ
2024.12.12
読書の愉しみ
本を読むのが好きです。
少し変ですが「文字・文章」が好きなのかもしれません。新聞でもなんでも活字が無いと時間を持て余すことになります。小学生時代は、新学年での教科書の内で、国語については受け取って直ぐに全部を読んでしまっていました。図書室で借りては日本の童話集・世界の童話集を読んでいた記憶があります。
子どもの頃の誕生日では、父がプレゼントとして学年が一つ上の本を買い与えて呉れました。数十年の昔に、父が本屋で、こども向けの本を選んでいる姿を想像すると、嬉しくも有り愉快でもあります。
そんな子ども時代から読書の概念を変えた一冊が、フランスの作家「アルベール・カミュ」です。彼の「異邦人」という文庫本を中学2年生の夏前に田舎の本屋で購入しました。所謂、ジャケ買い。本の紹介には不条理文学の傑作とあったかと思います。それほど厚くなかったことと表紙が大人っぽく素敵に見えたので買いました。
読んで吃驚。「今日ママンが死んだ。あるいは昨日だったかもしれない」で始まる小説は、正に不条理。親が死んだばかりなのに亡くなった日が分からなくなる?、中2の頭では理解など出来ません。苦労して読破した後に更に不条理小説に挑戦しようと、「カフカ」の「変身」も購入してみました。数年前まで童話や冒険小説を読んでいた頭に、突然に「毒虫」に変身する男の物語には、直ぐに降参しました。その後も夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読んでみたり、数年後には小林秀雄、安倍公房など難解系(?)の書物にも挑戦しました。
話は変わりますが、中二の時には衝撃的な事件がありました。1969年から1970年の2年間には、ベトナム戦争の激化・安保闘争・原子力空母エンタープライズの寄港などなど、東大安田講堂事件(1969.1)やアポロの月面着陸(1969.7)、よど号ハイジャック事件(1970.3)などが起こります。世は正に安保反対!、学生運動真っ盛り。カオスの時代です。
1970年11月に三島由紀夫が自決します。彼が主宰した「楯の会」隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた事件が起こります。三島ともう一人が割腹自殺の上で介錯され、他の3人も逮捕され懲役刑となりました(35年余を経て、この時の生存者3人のうちの一人に知己を得て、裏話の一部を直接に伺うこととなりました)。
兎に角、中二の秋に初めて三島由紀夫を意識しました。それから1年8箇月後。高校一年生となっていた私は、夏休みに入って直ぐに、沼津市の「マルサン本店」(懐かしいですね)に出向き、書架に並ぶ三島の文庫本をあるだけの種類全部を買って帰ります。新潮文庫の背表紙はオレンジがかった赤、表紙は白色の本を30余冊買って、夏休みに毎日読み耽けました。「仮面の告白」「午後の曳航」「金閣寺」「永すぎた春」「花ざかりの森」「宴のあと」・・。そして最後は大学時代に購入した、三島最後の長編小説「豊饒の海(全四巻)」で終わります。因みに、彼はこの最終稿を出版社に入稿した日に前述のクーデター未遂を起こし株区しました。
この作家「まるごと読破」は、芥川龍之介・太宰治・武田泰淳・・etc.当時マルサン本店で書架に並んでいるものに限られるものの、マイブームとして続きました。
本を読むと時間を忘れます。
大人になってからですが、本を買うこと自体も好きで、買ったら取っておく習慣です。転居時に泣く泣く一部の本を処分したこともありますが、本棚に本が増えていくことも愉しみです。オイルショックを経て本の価格もどんどん上がり、欲しい本の全部を買う財力は持ち合わせていません。そこで図書館。町の図書館は一回10冊まで2週間の期間で借りられました。依頼すれば自分が読みたい新刊も入れて呉れます。住民税分を取り戻そうという姑息な考え(?)で、毎回10冊を自分なりに厳選し2週間に一度借りては返すを繰り返します。週に5冊の読破です。単純計算で年間約250冊。居間で読む本、トイレで読む本、寝室で寝る前に読む本、会社の昼休みに読む本、同時に4冊を並行して読みました。
今は、読書の時間が増えすぎると他の用事に使う時間が足りなくなることから、自然と読書量を減らしています。
長編(厚い本)が好きです。
読んでいて直ぐに読了するのが悲しくて、厚い本が好きです。読み進めても「未だこんなに残ってる」と安心してしまうのです。
京極夏彦なる作家が突然現れます。1994年、講談社より「姑獲鳥の夏(うぶめのなつ)」なる本が新書版として発売されました。
厚い上に1頁が上下2段に分かれ「文字ばっかり」。今でこそ人気作家となっていますが、当初は、出版社へ架電の上で送り付けられた本を読んだ編集者が、有名な作家が書いたもので悪戯で偽名で送り付けたものと疑います。後日に書いた本人に会いますが全くの無名の新人。即、出版に至ります。作中の主人公が不思議な出来事に対して、博覧強記の知識と事件の綿密なリサーチから、後半、長台詞(ながせりふ)で延々と謎(呪詛に近い)を解きほぐし「この世には不思議なことなど何もないのだよ」と諭す内容は堪らなくエキサイティングです。血液型A型の私としては、この主人公も間違いなくA型だと信じ込み夢中で読みました。その後シリーズ化され、更にどんどん長く(厚く)なっていく本に興奮したものです。
「絡新婦の理(じょろうぐものことわり)」が829ページ、「塗仏の宴(ぬりぼとけのうたげ)」が上下2冊で1248ページです(何れも新書判)。全て上下二段書きでこのページ数です。
もう文字ばっかり。その後、このシリーズは多少は短めになりますが、2023年に発行された鵼の碑(ぬえのいしぶみ)」は832ページ、税込2,420円です。高くなったなぁ。
時代小説が好きです。
いろいろなジャンルの本を読みますが、好きなものの一つに時代小説があります。戦国時代や幕末ものは男性に人気があるようです。NHKの大河ドラマは視聴率が高いですし、本年度のエミー賞では真田広之氏の「SHOUGUN」が18冠に輝きました。
私が一番好きなのは江戸時代の市井ものや下級武士を主人公にしたものです。名も無き庶民が懸命に厳しい江戸の世を生き抜く物語や、下級武士の哀切な生き様を描く作品です。
山本周五郎・藤沢周平・池波正太郎・・、これまた作家毎に近場の本屋で販売されているもののほぼ全てを買い求め読み漁りました。昨今も時代小説は人気のジャンルらしいですが、私は何故か昭和の作家限定です(その後の作家の作品は、単に読まず嫌いと思います)。男も女も矜持を持って生きている内容に涙し、自宅の書棚に今でも藤沢周平や他の作家の作品がずらっと並ぶのを見て悦に入っています。
謎が好きです。
謎解き系もサスペンス系も好きです。ホラー系や国際的な危機を描くもの、警察小説も良く読みます。ホラー系でも昔からの因習や宗教が絡んでくるとワクワクしますし、国際的なサスペンスでは若い頃に読んだフレデリック・フォーサイスなど。彼の本は徹夜仕事となります。「ジャッカルの日」「オデッサ・ファイル」「第4の核」など、本を買い求めた日は途中で止めることは不可能で、徹夜で読了することになります。
歴史ものとして、謎の多い時代を書いたものも好きです。
歴史が好きで謎が好きですから、史実として分からない点(謎)も多く、それ故に想像力を刺激して呉れて愉しいものです。
邪馬台国は不明点が多すぎますが、奈良時代以降は資料が残っているものの分からない点が多く、古事記(712年完成)・日本書紀(720年完成)のいわゆる記紀が最大の資料となります。その内容の信憑性は甚だ不明です。当時の先進国である中国の歴史に匹敵するほどの長い歴史を持つ日本王朝として(誇示したく?)編纂された書物です。結果、無理が生じてか初代天皇である神武天皇は124歳、景行天皇は147歳、他にも100歳以上の長寿の天皇が10名以上いらっしゃいます(但し、倍歴説(半年で1歳)など1年の長さの考え方が違ったという説もありますが、実際何歳だったのかと言うより実在したか否か自体が謎です)。713年に編纂の指令が出て、その後に纏められた風土記等の資料も、信憑性の高さを求めるのは難しいものです。
そもそも、古事記では稗田阿礼の口述を太安万侶が記述したものとされますが、文字の無かった世界や時代の話を文字化するのですから困難です。同じ神であっても、諱(いみな)では同一天皇でも、「表記の字が違う」複数の名を持つ状態(同じ神でも名前が複数ある状態)で現れてきます。理解するには相当の事前知識と記憶力が必要です。
現代の作者も想像を膨らませて書くのでしょうが、視点や発想の違いから思い掛けない作品の内容に、読んでいる私も夢中になれるものです。梅原猛は学者でもありますが「隠された十字架-法隆寺論」「水底の歌-柿本人麻呂論」、彼のファンでもあった井沢元彦「猿丸幻視行」などは正にその時代が舞台であり、日本史の「謎」の部分を扱った本です。これまた因みに、以前に愛知県南知多町を車で走っていた際に、突然「梅原猛生家」の看板が現れ吃驚したのを覚えています(正確には伯父の家に養子に入っていますから生家ではないかもしれません)。
この流れで、一つの例として藤原不比等に強い興味を持ちました。中臣鎌足の子です。
鎌足は、中大兄皇子(後の天智天皇)に従い、645年に「乙巳の変(いっしのへん)」を起こし蘇我入鹿を殺害し、その父である蝦夷を自死に至らせます。
この事件の以降に日本は変わります。現在に続く日本の基礎が出来ていく時代となります。因みに、ある程度の年齢の方は「乙巳の変」など習った記憶が無いと仰るかもしれません。以前は中大兄皇子が蘇我宗家を滅ぼした事変も含めて「大化の改新」と教科書では教えていました。いつからか確認出来ませんでしたが、現在は乙巳の変を経て行われた改革を大化の改新とし、「変」と「改革」を分けています。
時代は古代です。
日本の古代とは、縄文・弥生・古墳時代から飛鳥時代を指します。縄文時代から「奈良、唐に倣って平城京」の710年以前までのことですが、これ等の時代が一括りにされているのは、資料として残存するものが少なく謎が多いことが一つの原因です。歴史的には、奈良への遷都前に完成した大宝律令の制定以降を「国家の成立」と捉えるもので、これ以降は残された資料から歴史の事実関係を確認し得ることが多くなっています。
藤原不比等は659年から720年まで61年の生を得ます。正に飛鳥時代から奈良時代初期の人物です。父である中臣鎌足は乙巳の変での功労は大であり、天皇より妃を下賜され、不比等は次男として生まれます。不比等の名は「史」であり「書記官」的な事務系を主とする名が元と言われますが、「等しく比べる人は無し(馳星周)」とも読めます。彼自身の最高位は正二位右大臣でありましたが、死後に功績大として正一位太政大臣(官僚制度の最高位)を授かっています。
私が彼を偉大だと(勝手に)思う根拠は、次の3点に集約されます。
1.天皇を万世一系のシステムとして、親から子へ地位が継がれる制度を作ったこと
2.天皇に比類し、若しくは天皇の地位を脅かす力を排除し、天皇を中心とした官僚制度を作り上げたこと
3.天皇との間に姻戚関係を持ちつつも臣下の立場を取り、1300年に亘り藤原一族の血脈を政治の中心に残し続けたこと
彼が目指した変革以前の飛鳥時代の政局は不安定でした。
天皇の地位は有力な氏族の強い影響下にあり、その地位は争いを伴うことの多い兄弟間を中心に引き継がれ、且つ有力な氏族の後ろ盾無くしては成立しなかった時代でした。彼と彼の子孫は、これを徹底的な「他氏排斥」と天皇との「外戚関係」の維持で改革し、天皇自らの施政と官僚組織の施政のバランスを取り「国家」を成立させていったのです。
飛鳥時代までは壬申の乱がそうであったように、天皇の地位は親から子へ移ることが常識ではありません。天皇の兄弟が多く居る時代であり、兄から弟への皇位移譲が基本であって、子と子(母親違い)や、子と叔父(先の天皇の子と先の天皇の弟)の争いが起こります。私見ではありますが理由としては、一夫一婦制ではないこと。我が国で一夫一婦制が法的に成立するのは、明治31年(1898年)のことです。また子の死亡率が高かった頃であり、栄養面でも医学的にも疫病等での寿命も短かった時代です。天皇ご自身の寿命も実際は短いケースも多く、となると亡くなった天皇の子は未だ幼少であった訳で、治世的に大人である兄弟が次の天皇の任を担うのは当然に考えられます。
また天皇は未だ絶対的な権威を持って治世する時代でもなく、有力な氏族の協力の許で国を治めていました。
この少し前では、蘇我氏宗家(蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿)が力を持ち、徐々に実質的に天皇に近い権勢を揮うことになっていました。実際、中国の歴史書である「隋書」には、中国から派遣された裴世清(日本からの遣隋使である小野妹子の帰国とともに来日した)が当時の日本について記した部分が残っています。世は女性天皇である推古天皇の時代です。しかし、裴世清は日本で会った大王(おおきみ)は男性であると書いています(大王は飛鳥時代の天皇の呼び名であり、天皇という言葉が使われるのは7世紀後半頃よりとされています)。歴史家の一部は、この大王こそ蘇我馬子であったと指摘します。言わば蘇我王朝が、乙巳の変で倒されたことから世の中の流れが変わったとも言われるのです。
天皇(大王)は神代の時代(天照大神)から続く正当な血筋として、絶対的な不可侵であり、万世一系にて天皇の地位は親から男の子へ継がれるもの(勿論、推古天皇を始め女性天皇は存在しましたが、それは時の権力者の都合や、天皇になるには幼すぎることで母親が一時的に天皇になる等の理由に拠ります)であって、実際には親から子への継承ではなかったものが、親から子へ引き継がれることが古からの本来の姿であるとされていったのです。
この流れ(変革)を作ったのが持統天皇であり、藤原不比等であるとされます。天皇自身が細かいことから理論立てし制度を作り変える作業を行ったとは考え難いですから、その大役は実質的に藤原不比等が担ったものと考える歴史家もいます。
変革への一つとして、予て天皇の地位を求めて主として兄弟間の争いが生じていたものを、当然の「理」として親から子(長男)に譲られるものであるという考えを国に植え付けようとします。その手段の一つが「日本書紀」の編纂です。
日本書紀では「国」の始まりは、「天照大神が孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」に、高天原(天)より地上に降りて治めよと命じられたこと(天孫降臨)とされます。そして瓊瓊杵尊の5代下がったのが我が国の初代天皇である「神武天皇」です。
改革を不比等とともに進めた持統天皇は、天智天皇の娘であり天武天皇の皇后でありましたが、夫である天武天皇崩御後に子である草壁皇子(不比等は草壁の部下でした)が皇子として天皇に即位する筈でした。しかし、草壁皇子は異母兄弟である大津皇子との関係もあり、直ぐに即位できずに皇子のままで逝去してしまいます。
解釈の仕方に拠っては、日本書紀に書かれる「天照大神が孫に国を治めることを命じた」ストーリーは、持統天皇が諱(いみな)「軽」と呼ばれた「孫」を天皇(文武天皇)にした内容にも似ています。藤原不比等は、この直系が天皇の地位を継ぐ形を「万世一系=神代の昔より正しいもの」と、日本書紀を使って権威付けたものとも考えられるのです。更に言えば、我が国の歴史感を作り上げたとも受け取れます。
摂関政治という単語はご存知と思います。摂政と関白です。共に天皇に代わって(または補佐して)政治を司る最高権力者の役職(執政)です。摂政と関白は立場が違いますが(詳細省略)、日本の歴史では推古天皇の時代から明治まで、この摂政政治が続きました。摂政として聖徳太子から草壁皇子までは皇族(皇族摂政)であり、臣下がその地位に就くことはありません。その後は、明治の世に至るまでに摂政関白に就いた120人を超える執政(重複者多数)の中で、藤原家(不比等の子孫)以外の人間は僅か二人しか居ません。120分の118が藤原家の人間です。そして他の二人とは、関白となった豊臣秀吉と甥の豊臣秀次(子の無かった秀吉が後継として養子とした。後に秀吉に秀頼が誕生したことから最後は切腹させられる)のみです。武士は征夷大将軍の位を受けて将軍になるのが慣例ですから、秀吉は異例です。歴史的に言われる彼の出自が関白を求めたのかもしれません。とは言え関白を授かる為に、秀吉は近衛家(藤原北家)17代目当主であり太政大臣となる近衛前久の猶子(養子)になる必要がありました。逆に言えば藤原家の猶子になる手順を踏まなければ、関白になれなかったということになります。
長い時間を掛けて、藤原家(詳細には藤原北家、更には藤原北家九条流)以外は摂政にも関白にもなれない制度が作り上げられていったのです。
摂関の制度は1867年(慶応3年)に「王政復古の大号令」を以て一度廃止されますが、1947年(昭和22年)施行の日本国憲法(第5条)にて摂政制度は復活します。明治に廃止されるまでの皇族摂政より1400年、人臣摂政(皇族でなく臣下が就くもの)より1100年余続いたものではありますが、実際に藤原家が摂関として権力を握ったのは約200年間となります。第71代天皇である後三条天皇と、第72代天皇である白河天皇は藤原家と外戚関係を持たず、「親政(天皇が自ら政治を行う)」へと移りました。その後は武家の台頭に拠り施政者は第三者へ移っていき、制度としてのみ続いたことになります。
しかし、摂関を独占し結果的に1300年間に亘り日本の名家として名を残した藤原家(親政を進めた白河天皇以降は名家としては残りますが、藤原家の権勢は衰え、1086年に摂関政治は終了します)は、やはり特別です。平安末期から鎌倉時代にかけて名を変えていきます(藤原だらけで分かり難くなった為)が、今に残るその名は皆さんも聞いたことがあると思います。藤原不比等の子孫で公家の最高峰であり(太平洋戦争の敗戦後に制度は変わったとしても)、現在に至るまで脈々と残る名家は「近衛家」「一条家」「九条家」「鷹司家」「二条家」です。この五つの家柄は五摂家(摂政になれる五家)と呼ばれています。
明治になって日本は華族として「爵位」を決め、天皇は公家や大名、維新の功労者達に「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」の5爵を授けます。五爵は1884年に定められ、最高位の公爵を受けた人(家名)は11家(その後に19家まで増えます)のみですが、内、この5家の藤原宗家は全て揃って公爵を授かり、更に藤原北家の支流である三条家も受けたことより、11分の6、なんと半分以上が藤原不比等の子孫です(因みに他の5家は徳川宗家、島津家が2家、毛利家、岩倉家(岩倉家は岩倉具視の功績にて公爵を授かりますが、岩倉具視も元を辿れば藤原北家の流れを汲む)です)。更にその後に公爵を授かる徳大寺家も西園寺家も藤原北家です。
藤原不比等に関わる話が多くなってしまいましたが、藤原家(北家:摂関家)もまた時代の変遷とともに、高級貴族であっても活躍の場は激減します。NHKドラマ「光る君へ」が取り上げる藤原道長・頼道の親子の時代を頂点として、荘園の拡大と変遷、武家の台頭などに拠って、やがて表舞台からは見えなくなります。
何が原因で時代が動くのか。その原因は何処から生じていったのか。興味は尽きません。
勿論、これ等を知り得る手段は読書です。古文書を読む知識が無い私には、作家が調べ、不足分を想像力で補って完成させて呉れる現代の本を通じて、資料として残る1300年間の歴史ロマンを感じることが出来るのです。
藤原不比等につついていえば、私も多少とはいえ専門的な資料も読みましたが、なかなか手強いものです。手に取りやすい(読み易い)小説としては、日本での中国人の抗争バイオレンスを描いた「不夜城」の作者である馳星周の「比ぶ者なき(中央公論社)」、学説書(的)なものとしては歴史学者である大山誠一氏の「天孫降臨の夢-+藤原不比等のプロジェクト(NHK出版)」、最近では今年の2月に発売された「アマテラスの暗号」も興味深い内容です。
結びです
人生100年時代と呼ばれるようになりました。しかし、どれだけ長生きしても自分が自ら体験できることや自分で考えることは「高が知れている」ものです。本は他者が経験したこと、他者が考えたことを有難いことに教えて呉れ、知識を増やし時に人間性を高め、人生を豊かにして呉れるものです。
先人や他者の力を借りなければ、積み重ねてきた歴史が無駄になります。三平方の定理(ピタゴラスの定理)は、教科書(書物)に載っているので知っていますが、書物の知識が無かったら直角三角形を見ていても、定理は一生掛けても思い付きません。
読書を遠避ける人は「何を読んでいいか分からない」、「読んでみたけど詰まらなかった」と言います。私も読んで詰まらないもの・合わないものは沢山ありました。詰まらなかったら止しても好し、我慢して読んでみても好しです。
たとえば読書の切っ掛けとして「浅田次郎」さんの本は如何でしょう。切っ掛けなどと言うと浅田ファンに怒られてしまいます。私も大好きな作家で、作品のほぼ全てを読んで保管しています。本を読んで「笑わせる、泣かせる」、彼は天才的なエンターティナーであり、素晴らしい作家です(最近は泣かせる一歩手前で筆を止めている(寸止め)気がします)。
「鉄道員(ぽっぽや)」は有名ですが、この本自体は短編集で他にも泣かされる作品が多いです)」でも「プリズンホテル」でも「天切り松」でも、「きんぴか」でも「地下鉄(メトロ)に乗って」でも、勿論「蒼穹の昴(と、それ以降のシリーズ)」でもです。比較的最近の「一路」でも「流人道中記」でも手に取って読んでみて下さい。浅田ワールドが、彼の類まれな筆捌きが至福の時間に連れて行って呉れます。
街の本屋は次々と閉店してしまいました。今は私もネットで本を買うことが増えましたが、本屋の無い街が増えることは中高生の好奇心が減ってしまうのではないか、更には日本の民度が下がるのでないかと不安になります。
インターネットが普及する前は、調べることも知識の蓄積も大変でした。何処に誰が書いた本があるかを知ることも大変です。専門的な本は町の図書館では限りがありますし、それでも本を一冊一冊と読んでいく以外に手段はありませんでした。新聞に載る本の紹介を通じて町の本屋に取り寄せて貰いましたが、往々にして期待外れで失敗もします。
それに比べて今は便利になりました。書評も読後の感想もネットで調べられます。但し、ネット上の情報は無責任なものも多数ありますので注意が必要です。
昔は会社に必ず国語辞典・漢和辞典・英和辞典・和英辞典を個人で持ち込んでいました。今はネットの辞典で用が足り、紙の辞典を開く時間も圧倒的に減ってしまっています。助かるのですが、良いことばかりでは無いような気もします。年寄りの偏った考えとも思いますが、本を読み、頁を捲り、厚い辞典で調べてこそ知識が身に付く気がしてなりません。
高校時代に山線(御殿場線)で通学していた私にとって、少ない電車本数との調整を兼ねて、マルサン本店や駅ビル店(1973年オープン)で本を探すことは大きな愉しみでした。参考書を眺めたり大学受験用の問題集を求めたりの最中でも、書架に並ぶ小説に指先をヒョイと掛けて、本を出しては戻すを繰り返し、どの本を買おうかと思案していた時間は、今となっては精神時代の貴重で有意義な時間だったと思います。
是非、読書の時間を愉しんで下さい。
(雀庵)