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雀庵のブログ
2024.08.08
土地の管理制度を通じて「二重登記」について考える
【始めに】
我が国の総面積は3779.7157万ha。一般に37万平方キロメートルとされる。国土を現況別の面積から見てみると、森林が2508万ha(全体の66.4%)、続いて農用地が473万ha(同12.5%)であり、合わせて78.9%を占めている。住宅地(一般居宅・工場・ビル等)は187万haであり、全体の僅か5%にも満たない。その他は道路であり河川であり原野となる。
これを所有者別に見てみると、国公有地(水路・道路等を含む)が36.0%であり、法人所有地は9.4%、世帯(私人)所有地は50.6%となる。三者の計は96.0%となり、差額の4%は「不詳」である。この調査統計の時点で、我が国の総面積の4%に当たる152万haは、明確に誰の土地であるか確認出来ないものとなっている。
土地の所有や、その他の土地に係る権利関係は「不動産登記」に拠り確認される。不動産に係る法律は、明治31年に民法が制定されたことを受けて不動産登記法(明治32年6月施行)が制定されている。この中で不動産に関する登記が定められたものであり、幾多の改正を受け現在に至っている。日本は法治国家であり、明治維新以降に先進国である西欧諸国の法を参考に、多くの法が制定され、法に則りあらゆる分野で混乱や錯誤を防いできた。
不動産に係る分野でも、前述してきたように不動産登記法が定められ、混乱や錯誤を排除すべく整理され現在に至るものである。
しかし不動産に関しても、現在にまで混乱を生じる現状が生じている。2017年に大きなニュースとして取り上げられた「所有者不明土地」も一つである。所有者不明土地とは、登記簿謄本等を調べても現在の所有者の全部または一部が特定できない土地を指し、その所有者不明土地の面積を合計すると410万haに達する。我が国の面積全体の10.8%に相当し、これは九州の面積367万haを大きく上回る規模となっている。前述の「所有者不詳4%」には、実際に所有者の所在が不明であっても、登記簿に所有者が登記されているものは含まないと解されることで差異が生ずるものと思われる。
土地の所有者とは土地の所有権を有する者であり、その所有権を登記することで第三者に対抗できるものである。土地の所有者が確定しない場合、固定資産税の徴収にも影響し、当該地を含む土地の開発(現況を造成等で宅地や農地に変更すること)にも足枷となって、国土の有効利用を大きく阻害することになる。
静岡県東部地域でも多く見られる例としては、市街化調整区域の山林地帯で、材木の切り出しのために設けられた「道」部分がある。周辺の山林を所有する個人が複数集まって「木材の搬出路」を作ったものの、多くは当該「道」を利用する周辺の山林所有の個人が「共有地」として所有権登記をしている場合が多い。国産木材は、戦後の復興期に大いに需要があったものの、その後に輸入外材に価格競争で敗れて以降は、山林自体の手入れも減り、切り出しも激減して荒れた「山」の状態が続いた。切り出し目的の「道」部分も使用頻度が減り、現況では位置すら判別が難しくなっている。同時に、数十年という期間の中で共有する者が死亡し、相続登記が為されないまま現在に至るケースは数多く見受けられる。例えば戦後直ぐ(約80年前)に100人の共有地として作られた道部分の筆で、ほぼ全員が死亡しているであろう現在も、死亡した故人の名のまま登記が残っているのである。当初100人持ちであった土地も、現在の相続人は数百人に上る可能性があり、且つ、その全員の所在の確認は費用と時間を要し、それでいて容易に相続登記の依頼に応じて貰えるものではない。現実的に、その地を含めたエリアで例えばリゾート開発を計画しても、数百人の地権者から同意(売買・賃貸)を得ることは困難であり、計画自体が立ち消えすることとなる。
所有者不明土地について本稿は多く述べるものではないものの(末尾にて改めて追加として述べる)、限られた国土である土地について、管理や利用上の齟齬を押さえる法や制度が存するにも拘わらず、現実的には多くの問題点が生じている。
聞き慣れない単語かもしれないが、本稿の「二重登記」も同様であり、以下これを纏めるものである。
【登記制度】
「土地や建物に関して登記」することは一般的に広く知られている。これは不動産登記法に基づいて行うもので、土地を買った、家を建てたという時には所有権移転登記や所有権保存登記を行い「これは私の所有する土地(建物)である」と公にするものである。
何故に登記が必要かと言えば、登記は法律に基づき「対抗力「権利推定力」「形式確定力」が与えられることに拠る。
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対抗力
不動産登記をすることに拠り、第三者に対しその不動産の所有権や抵当権などの様々な権利を主張することができる(民法177条)。例えば、不動産の二重売買が行われた場合、先に不動産登記を備えた方が、もう一方に対し、その不動産の所有権を主張(対抗)することが可能となる。
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権利推定力
権利推定力とは、対象となる不動産に登記が設定されている場合、その登記通りの実体的権利関係が存在するものと推定される効力のことを指す。あくまでも推定であるため、その登記が真実ではないと主張する者が反証することにより、覆される可能性はあるものの、登記を信頼し取引に入った第三者には、過失がないものと推定される。
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形式確定力
形式的確定力とは、一度登記がされてしまうと、その登記の真偽に関わらず利害関係者や国家機関が、その為された登記を無視して登記手続きをすることができない効力のことを言う。無効な登記が為されている場合であっても、その無効な登記の抹消等をしなければ、真の権利者は自らの権利の登記をすることが出来ないこととなる。
土地を購入した場合、所有権が自らに移転したことを登記することに拠り、第三者が何らかの理由で「その土地は私のものだ」と主張しても、「登記された名義の方のもの」と判断されることになる。
但し、不動産に関して日本の法律では「登記に公示力はあるが公信力は無い」となっており、上記の3つの「力」を得ることは出来るものの、登記の内容が実体的にも絶対的に真実であるとまでは言えない、という考え方である。それにしても登記することは所有者が誰であるかを明確にし、第三者に対抗力を持つことが出来る。
【二重登記・重複登記】
しかし、所有権を登記したのにも拘わらず、更に別の所有者が同じく所有権登記されているケースが稀に存在する。
例えば〇〇市門前町字山中100番という土地があったとして、その所有権が甲氏と登記されていれば、この土地は甲氏のものと判断される。
しかし、この100番の土地の所有者がもう一人別に登記されている(別の登記簿謄本が存在する)という事例が存在する。これが一般に「二重登記」や「重複登記」と呼ばれるものであり「二重地番」と呼ばれるケースもある。甲氏は、この100番の土地を売却し買主に所有権を移転することが当然の権利として可能であるが、もう一人の所有者(乙氏)も自らの土地であると主張された場合は如何なるのであろうか。この様な土地では電子謄本の取得は出来ず、エラー扱いとして法務局で「紙」の登記簿謄本を取得することとなり「二つ謄本が在するが何れの謄本を求めるか」と尋ねられることとなる。
具体例として静岡県東部の市内の土地で、平成後期に売買にて所有権を得て登記した筆に、他の所有者の登記がされているケースを取り上げたい。平成後期の売買での所有者は個人、一方の所有者は明治23年(134年前、我が国で初めて登記に係る法律が出来て僅か4年後)に、買上を原因として所有権登記した静岡縣廰(県庁)である。
平成後期の売買時は問題なく契約され、前所有者(個人)から問題なく所有権移転登記が為されているものであるが、同じ所在の同一地番の土地に現在の「個人」と「静岡縣廰」という二者が土地の所有者として現実に登記されているのである。
なぜ二重登記や重複登記・二重地番が発生するのであろうか。理由はそれぞれのケースが考えられるものの、一番の理由は土地に係る我が国の管理制度(後には登記制度)の変遷と、それに伴うヒューマンエラーと考える。
【不動産の管理方法の変遷(近世以前)】
二重登記の原因の一つと考えられる土地の管理制度の歴史を振り返ってみることとする。
まず統治という機能を持った国の出現はいつ頃であろうか。縄文時代、弥生時代には人が集団で生活する基盤は発生している。但し、集団が大規模化するにしても、未だ統治国家という機能は出来ておらず、紀元前後には日本には100余りの大規模でない集団があったと言われている。紀元1世紀には、中国の漢(後漢)より「漢委奴国王」と刻まれた金印を授かっているが、当時の中国は我が国を長らく「奴」と呼び、この金印は「漢の国王が奴の国王を日本の国王と認める」という意味であり、日本国全体ではなくても一部の地域を統治する国王が居たと解されている。紀元3世紀には卑弥呼の邪馬台国が出現し、3世紀後半には大和政権が樹立されたとされるが、資料が現存しないことから正に古代史の謎の世界であり、確定的なことは分かっていない。
その後、歴史が史実として少しずつ現実味を帯びることとなるが、端緒は土地の管理に関して645年の「大化の改新」後に「公地公民制」が始まったことに拠る。当時は土地を一般の人が所有する考えはなく、土地から生じる作物や木の実などの所有の概念はあったと推測されるものの、大化の改新の頃は「土地は朝廷のもの」であり個人所有の制度は無かったとされている。この公地公民制は「国が土地を人々に貸し与える」という考えに立っており、そして土地とは作物等を生み出すもの、いわゆる農地が中心となっている。朝廷の土地を6歳以上の男女に「口分田」として貸し与え(6歳以上の男子で約2400㎡、女性は1600㎡)、耕作させた後に農地より収穫された作物を税として国に納める制度「班田収授法」が定められ(701年)た。よって、この頃には土地(基本は農地)に対する面積や収穫高を決める初歩的な「検地」が行われていた筈で、朝廷のものである土地からの税を取り立てる為に管理する制度も作られている。この管理者が「国司」であり「郡司」である。朝廷は全国を60の国に分け、その下に複数の郡を置いた(更に細分化に「里」を置く)。これが「国郡里制」である。国司は中央からの貴族であり任期を持ち、国衙と呼ばれる拠点で「国」を管理し、郡司は郡衙と呼ばれる役所で郡を管理するが、多くは地方の豪族であり任期は無く世襲も認められた。
土地の個人所有が発生するのは奈良時代に「三世一身法」が発布(723年)され、「墾田永年私財法」が発布(743年)された以降となり、「三世代のみの私有」が認められ「自ら新しく開墾した土地の永年の私有」が認められたことからとなる。やはりこれは農地が対象であり、農地を自ら開墾した者に所有を認める制度は公地公民制を破綻に導き、貴族や寺社は土地の所有を拡大し、800年前後には「荘園」と呼ばれる私有地を増大させることになる。これ等の私有地である荘園も当然に担税の義務がある(輸租という)ものの、「納税額を減らす」為に多くの不正や揉め事を起こすことになる。高級貴族が政治を動かす時代(摂関制の時代)では、寺社領に続き「不輸不入の権(税を負担しない特権、国の役人(国衙使)を荘園に立ち入らせない権利)」を得ることになる。
朝廷の所有地である国衙領に於いても、朝廷は国の役人である国司に「裁量」という権限移譲を行い、税率や税収そのものを国司や郡司が決めていくことが可能となり不正が蔓延ることになった。現代の言葉に変えれば「税をノルマとして決め、それを上回る額については懐に入れられる」のである。これが荘園(私有地)に於ける担税を拒否する権利と合わせて、国力の低下を招くことに至る。
国司・郡司の不正蓄財や、前任国司と後任国司の引継ぎ時の争いに対して、桓武天皇は令外官(律令制度に無かった職位)として「勘解由」を定め(8世紀後半)、管理の徹底を図る。桓武天皇は平城京から長岡京・平安京への遷都を行うものの、費用が大きく不足し、不正蓄財等を厳しく管理したかったのも理由であろうと推察できる。これは当時の天皇が度々行った「荘園整理令」も同根であるが、結果的に荘園の拡大も止まらず、功を奏すことなく朝廷の力の低下は続くことになる。
10世紀に入ると、国司の権限は強まり地方豪族も力を付けたことより、国司対地方豪族の争いが発生してくる。これが、同時期に起こった平将門の乱や藤原純友の乱(承平天慶の乱)である。これが後には「平氏や源氏」の武家台頭に繋がり、後に守護大名が発生し、やがて一つの見方として、管理者達に拠る「国を治める権力と莫大な権益を求める戦い」へと発展する。
国司対地方豪族の争いは、その紛争の静定を任された「平氏や源氏」の武家の力が増すものであって、実際に承平天慶の乱の鎮圧に関わった源経基は清和源氏の祖であり、同じく平貞盛は桓武天皇の三代目であった。ともに国司(守や介)として任地に赴いており(受領国司)、力を蓄え、朝廷から武家の時代へ大きく変化を遂げていく始まりであった。
その後、平家の時代を経て、更に平家を駆逐した源頼朝は1185年に「守護・地頭」を全国に配することを決めた。国衙領・荘園の管理は「鎌倉幕府(武家)」が管理者の任命権を持つことになり、朝廷が定めた国司・郡司の時代は終了し、朝廷とは別の権力が国を司る体制に変化していく。
更に応仁の乱(1467年~1477年)に拠る幕府(室町幕府)の衰退が進むにつれ、守護から力を付けて一大勢力となった「守護大名」が、権力と莫大な権益を求めて争う時代(戦国時代)へと突入することになる。
因みに、織田信長は守護大名の家臣の家柄が祖であり、武田信玄は甲斐の守護の家の出であり、上杉謙信は守護代(守護の下の役職)の出身である。後に世を平定する徳川家康は、徳川家の祖である松平親氏が国司である三河守の子孫とする説があるものの、出所不明の人物であり、親氏の養父である松平信重も国人であり守護ではない。
【余話】
「荘園」と一つの単語に纏めてしまえば、荘園は非常に興味深く(これを語ると相当数の頁を必要とすることから割愛する)、時代を変遷させた重要なものである。
記述のとおり、「墾田永年私財法」(743年)が制定されて「公地公民」に反して土地の私有が認められることとなるが、当初は冠位に拠って私有地とする面積に制限があった。更には当初は寺院救済の意味合いが強いものでもある。当時、天災や疫病で疲弊する国土を救済せんと聖武天皇の命にて東大寺盧舎那仏(大仏)が造営されるが、これは仏教を以て国を治め安定させることが目的であった。この寺は「国の為に祈る」ものであり、これの財政支援として「寺院墾田地許可令」が749年に発布される。勿論、有力貴族も土地を入手するが、基本は班田収授であり耕作する土地は既に貸し与えられており、土地は得ても耕作者が確保できないものであった。この耕作者の確保に協力するのは、後に郡司となることも多かった「大和政権が任命した国造」(くにのみやつこ)の子孫であったりする地域の有力者である。土地の私有が認められ班田にも拘わらず耕作者の確保が進むことで荘園は拡大を始め、NHK大河ドラマの主人公の一人でもあり藤原家の繁栄の頂点である藤原道長・頼道(藤原北家九条流:摂関家)の時代には、藤原実資(藤原北家小野宮系)が「世の中の土地は悉く(ことごとく)摂関家の領地となり、公の土地は錐(はり)が立つ程も無い」と日記に記す程になっている。これは誇張された文とも言われるものの、藤原摂関家は自ら荘園を得たもの他に、強大な権力のため他者からの「寄進」で荘園を増やし、「成功(じょうこう)」という紹介・斡旋料も合わせて(悪い言い方では「賄賂」)莫大な富を得たものとされる。
しかし荘園の増大化は、皮肉にも道長・頼道の祖である藤原不比等が作り上げた「万世一系の天皇を頂く中央集権国家」を衰退させ、最終的に武家の台頭を起こし、結果として藤原一族(北家:摂関家)の没落を招くものであった。藤原摂関家は太平洋戦争の終結以前までの1300年に亘って天皇の直ぐ傍に侍り、名家の名を恣しいままにしたものの、明治維新となるまでは天皇の実質的な権限の矮小化とともに、単なる名門貴族として甘んじることになったのである。
【不動産の管理方法の変遷(近世以前)の続き】
江戸の世より少し遡るものの、土地(主に農地)の管理については、豊臣秀吉の「太閤検地」が有名である。土地の大きさを確定し、誤魔化し無く農地から生まれる農作物の量を把握(江戸時代へ続く石高制の始まり)するものであり、太閤検地はかなり正確であったと言われている。「耕地面積・耕作者・収穫高・耕作者と納税者」を検地帳と呼ばれた「台帳」に記すことに拠り、農地であるものの現代へと続く土地登記の原型が出来たとされている。
江戸時代に入っても引き続き検地は行われる。隠し田などを持ち税負担が大きくなることを嫌う農民は検地に協力的ではなかったとされるが、検見(けみ)法または定免(じょうめん)法で決められる税(年貢)を納め続けている。
農地について、江戸時代には「本銭返・年季返・永代売」と呼ばれる売買は行われていたが、耕作者をより管理育成しようとする江戸幕府は、1643年に「田畑永代売買禁止令」を発布した。寛永の大飢饉が原因と言われるこの法は、耕作者の没落を防ぐ目的もあったと言われるが、1872年(明治5年)に廃止されるまで230年近く名目上は効力を持ち、農地の売買にともなう権利移動が原則禁止されたことで、誰の土地で、収穫量はどの程度かの管理は比較的やり易くなっていたと思われる。
因みに、農地の売買は禁止されたものの、町屋については売買が行われていた。この売買の証として所有者を明確にするのが「沽券」と呼ばれる書状であり、この単語はプライドを貶められた際に「沽券に関わる」と憤慨する言葉として現在まで残り、沽券を持つということは不動産を所有する優越感を表すものとなっている。
また江戸時代の町屋の税は如何なっていたかというと、無税であったとされる。これは豊臣秀吉に関東(箱根の「関)より「東))へ移封された徳川家康が、当時未開に近い江戸の地を開発し繁栄させる為に、永住者を呼び寄せる目的として税を取らない策を用いたことに拠ると言われている。結果、戊辰戦争を経て無血開城された江戸に入った官軍が、江戸の町民に「御用金の拠出」を求めたが、地税を求めなかった江戸幕府と比して官軍の人気が低かったのも「金を取る・取らない」の差が影響しているとも思われる。
【閑話】
土地(主として農地)の管理として、そこから収穫される農産物を物納させ税とする制度を遡ってみたが、ここで「その農地は誰の所有か、誰が耕作するのか」の「誰=人」の管理の歴史について振り返る。
「誰」を管理するのは「戸籍」である。この戸籍の歴史で確認できる最古のものは日本書紀の中に現れる「名籍(なのふだ)」と呼ばれるものであるが、これは主に渡来人の管理を目的とし、一般の人民管理ではなかったとされる。実際は、大化の改新(645年)以降に制度化された「庚午年籍(こうごねんじゃく)」と呼ばれるものが、我が国で最初の「整った・全国的な」戸籍とされている。身分や氏姓を管理し永久保存と定めたものとされるが、残念ながら現存していない。その後「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」という別の戸籍が作られたものの、9世紀初頭の平安時代以降は全国単位の戸籍の作成は行われなくなってしまう。その理由は、当時の戸籍は税を負担させることが主眼であったから、税金逃れの戸籍の偽造や戸籍に含まれない浮浪人の増加等で、制度自体が著しく正確性を欠くこととなり、やがて崩壊したとされている。その後の鎌倉時代・室町時代にも明確な資料は残っていないのが現状である。
これが復活していくのは、やはり土地(農地)の管理のために行われた豊臣秀吉の太閤検地からであり、あくまで戸籍の管理は土地の管理に基づき復活することとなる。
江戸時代は戦乱の無い時代であり、江戸幕府を頂点として各藩が土地を管理し年貢を集める制度に落ち着き、士農工商と人の身分制度も確立されたことから、再び「人の管理」が始まることになる。「宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)」や「過去帳」、「分限帳(ぶげんちょう)」など、複数の方向から人民の管理が行われることとなったが、現在の戸籍制度の始まりとしては、幕末の少し前に長州藩にて制定された戸籍法と言われている。
明治に入ると、欧米列強に伍するために様々な制度が定められ、現在の戸籍の基となる「壬申戸籍」が「家」を中心として作られ、戦後に「家族」を単位とする現行制度へと変遷いくことになる。
【不動産の管理方法の変遷(近代以降)】
近代以前の土地の管理について歴史を振り返ったが、その対象はあくまで「農地」である。これは大化の改新まで遡り、農地から生まれる作物を「税」として国が集めることが目的だった為である。
西洋列国に追い付こうと近代化を急いだ明治政府も、基本は「税の為」の土地管理制度を続ける。明治元年(1868年)、現在より155年前であり、昔のようでいてそれ程の昔でもない時代に、明治政府は前述の「田畑永代売買禁止令」を廃止し、田畑の売買を認め「地所売買譲渡に付き地券渡方規則」を定めた。併せて、租税制度を地租(金銭での納付、固定資産税的なもの)を基本とした。これに伴い、明治4年に土地の管理の為に所有者毎に何筆かをまとめた形で「地券制度(壬申地券)」が作られ、まずは今まで無税であった都市部の土地(武家地や町人地)に課税する為に導入し、翌年に郡村部にも取り入れ、誰の土地が誰に売買されたか(実際は誰から税を取るべきか)を把握しようとした。土地一筆ごとの土地に地券が発行されるのは明治6年で、これが現在の権利証や登記簿に繋がることとなった。参考として本物の地券の写しを最終ページに載せたが、これは明治20年に作成された改正地券と呼ばれるもので、表面に土地の所有者(納税者)名と、地価に対して税率2.5パーセントで地租(今の固定資産税)を納めるものと記載されている(一般に明治政府は地租を3%に固定したと言われるが、この地券では100分の2ヶ半と記載されている)。
当初の地券は所有者が変わる度に再作成されたが、印刷技術が低く用紙の不足もあり、この改正地券では裏面に権利の変動の欄が設けられている。因みに明治18年までに、この地券の用紙は1億5000万枚も印刷されたそうで、地券の発行が我が国の製紙・印刷技術を高めた要因の一つとも考えられる。
地券の発行に拠り流れとしては、より土地の管理が進むことになるのが、問題なのはこの管理事務を所管する役所が変遷することにある。
当初、この管理事務は「府県庁」が行い、明治12年に「郡役所」へ移管されたが、土地に係る一部の業務は「戸長役場」が行うという制度であった。管理事務としては猥雑であり、翌年には土地の所有権移転について「戸長役場」の公証制度に組み入れられ、明治22年には地券制度が廃止され土地台帳制度となったが、都市部の台帳は「府県庁」に、町村の台帳は「郡役所」に備えられ統一されてはいなかった。
これ等の土地管理の目的は未だ地租(税金)の為であり、税金が納められることに主眼が置かれている。土地の権利変動の管理を重視するのは明治19年に「登記法」が制定されたことが端緒であり、これに拠り土地と建物の「登記簿」が「治安裁判所」(現在の簡易裁判所に似たもの。明治23年より区裁判所となる)に備えられるようになり、登記簿から不動産の権利の関係を、土地台帳から不動産の物理的な現況を把握することが始まった。その後、明治29年に民法が制定され明治32年に不動産登記法が制定された。例外はあるものの、現在、法務局に保管される登記簿は、登記法が導入された明治19年以降の物権変動の記録とされている。昭和に入り、戦後の農地改革等が進む中で昭和25年に土地台帳業務が「登記所」(現在の法務局)に移管され、昭和35年の不動産登記法の改正で「表示登記」に関する登記制度も創設された。現在のコンピュータ管理は平成20年に全国で行われ現在に至っている。
【二重登記・重複登記の原因考察】
長々と不動産の管理に係る歴史を振り返ったが、述べてきたとおり、土地の管理は「税」のための時代が続き、その管理を所管する役所も変遷を繰り返した。徴税管理と権利移動という管理の目的にも変化があり、管轄する役所も何度も変わってきたことで、引き継ぎ(台帳の移動、管理書式の変更に伴う移記・転記)を含めて「ヒューマンエラー」が発生することに繋がる。平成20年以前のコンピュータ化される以前の土地等の謄本は、タイプ印字であり、更にそれ以前は手書きのものである。手書きのものは達筆の上、独特の単語・漢数字・大字(だいじ)・変体仮名(へんたいかな)が使用され、大変に読み難く、間違え易い文字の羅列であった。これを管轄役所の変更や、それに伴う書式の変更等で「書き写す」際に間違ってしまうミスは当然に発生したと考えられる。
これが二重登記・二重地番の発生の原因の一つと考えることは、決して無理なことではない。
また、二重登記・二重地番に関して言うと、管理の為の「番号(地番)」を土地に付与する作業自体も膨大な作業であったと思われる。ここでもヒューマンエラーが発生する。この番号付与は決して一人の人間で出来るものではない膨大な作業であり、自ずと複数人で作業する際の方法として、「山側から(山地番)」「街側から(耕地番)」という複数の方向から番号を付与していくという策が、現実に行われた作業方法であった。すると、複数人で行うために同じ大字・小字であっても、違う場所に「同じ地番」を付けてしまうミスが発生する。このミスは関西以西に多い事例と言われているが、「違う場所」に「同じ地番」が付されるケースである。反して、同じ場所の同一の筆に二人の所有者が居る(勿論、共有ではなく)ケースは、管轄する役所が変わり、土地を管理する方法が変わり、必要に応じて何度か資料(後に台帳)を移し替えする必要が生じ、ある時、間違えて書いてしまう(移記)ミスが大きな原因の一つではないかと考えるものである。
このミスの例として、令和2年に農水省と法務省が調査・検討している。これは、戦後の農地改革に基づき昭和21年に施行された「自作農創設特別措置法(自農法)」に拠り、不在地主の農地を実際に耕作する者(小作農)の所有に直すという作業の中で発生したミスと言われている。この趣旨や手順は、対象となる農地を国が強制的に買収し、実際に耕作する小作農の方々に安価に売り渡し、安定的に営農して貰おうというものである。この際、不在地主からの強制買収時に、国は特例による簡易な登記(欄外登記と言う)を行った。この欄外登記を法務局が看過してしまい、旧所有者からの登記申請を受け付けてしまったケースが散見され、これが原因で旧所有者サイドの新たな所有権者と、自農法で新たに所有者となった者サイドの二人の所有権者が生じ、二重登記となったケースである。自農法に拠る二重登記を解決する事務は、法務局民事行政部長通達に拠り「県が行う」ものとされ、県はその事務作業の猥雑さに辟易し、国との間で解決策を求めている状況であるが、令和2年12月の法務省民事局民事第二課長名で、法務局の主席登記官並びに地方法務局の主席登記官宛に発した通知では、「当該者に対策として「自作農財産紛争処理等連絡協議会(不定期開催=いつ開催されるか分からない)」に申し出る等の策がある旨を丁寧に案内するよう」としている。複数の県と法務省と農水省が協力し解決策を探って会議を行っているものの、令和の世に至っても劇的な解決策は見出されていないということである。
管理の主体や管理方法が変遷したこと、必要に応じて土地の情報を書き写す機会が複数あったこと、更に看過などのヒューマンエラーが加わって二重登記・重複登記・二重地番は、多くはないものの決して少なくない事例として残ってしまったと考えられる。しかし、現在の法務局は戦後に作られており、過去のヒューマンエラーが原因としても、その責任を全て現在の法務局のミスだと主張することも難しい(自農法の欄外登記の看過については法務局のミスと認めている感がある)。明治以降の土地の管理体制のミスを指摘しても、また「いつ・どの時点でミス」が発生したかも推定でしかなく、明確な「答え」は出てこないのが現実であろう。
【解決策】
結論としては「こうすれば直ぐに解決」という策は、残念ながら見当たらない。
「異なる場所で同一の地番」が付与され、各々別の所有者がいる場合は、公図等での確認や調査の結果で合理的な根拠が確認出来れば、一方の地番を変えることで解決できる。具体的には登記官の職権での処理であったり、他の筆と合筆することで一方を違う地番とするものである。明らかに違う場所であると確認出来ない、又は全く同じ土地(筆)と思われるケースで所有者が二名登記されている場合は、より複雑である。例えば権利者が2者の場合、一方の権利(財産権)を強制的に放棄させることは憲法違反となってしまう。
現実的には、その土地に係る所有者たる複数名の権利の推移を徹底的に調べ上げ、法務局や課税に係る資料として市役所での調査、また公図を含めた図面関係も確認し(図面については町村合併に拠って、現在の市役所になくても旧町村役場に古い図面が残っている場合がある)、これ等を通じて、何故に二重登記なのか・何処にミスがあったのかを探った上で法務局と相談し、他の所有権者側の状況も確認の上で、合理的でない側の権利を消していくこととなる。
登記のルールの原則は、先に登記した(古い登記)が新しい登記に優先するが、事実関係はそれで解決するものばかりではない。新しい登記の所有者も相続や正式な売買で入手している場合もあり、売買代金を支払って権利を得たにも拘わらず、「別の謄本に記載される別の所有者の登記の方が古いことより優先する」と、一方的に職権で所有権を抹消されることは納得できるものではない。
二重登記・重複登記が不幸にも確認された時は、登記上の経緯を調べると同時に、その土地の管理状況の確認も重要となる。どちらの登記上の所有者が、その土地を利用し管理してきたのか。その実態はどの位の期間であるのか。実際の利用・管理と期間の確認は重要であり、時効に拠る取得を可能とする。これ等の可能な限りの調査の後に、法務局と相談し解決策を模索するしかないのが現状であろう。
これから不動産を購入しようとしているならば、その不動産の登記内容を確認して、自分が契約しようとする現所有者以外に、別の所有権者がいることが分かった時点で、購入は一旦止める必要がある。前述のとおり「古い登記が新しい登記に優先」される制度であるから、購入代金を支払っても最終的に自らの土地でなくなる可能性が「ゼロ」ではないと言うことである。
二重登記されている土地は、そう多くは無いものの、全国的には意外と少なくないのが事実であり、充分に注意が必要である。
【最新の不動産登記法の改正】
冒頭述べたように「所有者不明土地」は、我が国の国土の約10.8%にも上っていることから、不動産登記法も対策として改正が行われている。但し、令和6年4月1日より改正された内容は「相続時の所有権移転登記の義務化」に留まっている。改正以前は、被相続人の死亡に伴い、相続人は不動産について「新たな所有権者」を登記することは、義務付けられていなかった(任意であった)のである。この相続登記を行わないでいると、現民法の規定は家督相続ではなくなっていることから、新たな所有権者としての登記は無いまま、法的な相続人全員が現実的な所有者となる。更に次の相続が発生すると、その亡くなった者の相続人全員が所有権者に加わることとなり、例え僅かな地積の土地であっても数十人規模の所有権を有する者が発生する。これは所有者不明土地での一種である。
また不動産登記法の改正以外でも、平成30年に制定され令和4年に改正された「所有者不明土地の利用の円滑化等に関する特別措置法」も作られている。都道府県に拠る使用権設定・土地収用法の特例・管理不全を伴う場合の市町村長の代執行・民法の財産管理制度の特例の4つを柱として、合わせて仕組み作りを目指すものであるが、残念ながら根本解決には至らないものである。
確かに、二重登記の例として考察した今回の実例は、登記制度の変遷の中で生じた悪例である。平成後期に売買で土地を購入した者以外の、もう一通の土地謄本での土地所有者は「静岡縣廳」であった。しかし、静岡縣廰側に真に所有権があるのならば、縣廰側にて「変更に係る登記」が為されるべきであったと言える。現在、静岡県が所有権を有する不動産での所有者名義は「静岡県」であり「静岡縣廳」の名義は使用されていない。また、明治4年に廃藩置県が実施されたが、静岡県も現在の県域となるのは明治9年とされる。県庁の所在地も変遷しており、この静岡縣廳を所有者とする明治23年の登記(明治28年に旧登記簿より移記)も、ある意味で県体の変遷に伴う変更登記が為されていない登記とも考えられ、他の所有者不明登記と似た面が無いとも言えないのである。実際、今回のケースでは調査を行ったものの、最終的に静岡県との協議は行っていない為、県側の主張については認知しない。
この様なケースを含めて「古い登記」がそのまま残っている場合は、単純に相続時の所有権移転登記を義務化とするのだけではなく、相続以外を原因とする「古い登記のままの土地の登記を如何するか」までの改正が求められるものである。
本年、法改正された相続時に限る場合であっても、一般に登記に係る知識を全ての人が有するものでもなく、具体的なサポート策も合わせて整備するべきである。例えば、相続時(被相続人の死亡)に「死亡届」を市町に提出することは、ほぼ行われているものとして前提であるが、死亡届の提出時に提出を受けた市町は、被相続人の不動産に係る所有状況の把握の為に、「名寄帳」の交付(または取得の斡旋)を行うべきである。名寄帳にて市町内に被相続人が所有した土地・建物一覧を取得することで、相続人は所有権移転登記の対象たる不動産を確認できる。居住地以外(他の市町や県外)の不動産を所有する場合であっても、国が強く推進するマイナンバー制度にて、全国の他の市町に被相続人が所有する不動産の一覧を確認できる制度を作るべきである。相続人も比較的に目にすることが多いと思われる固定資産税納付の書類(毎年春に市町が所有者宅に郵送する)には、市町の市民の所有不動産の管理が「固定資産税」徴収を目途とするものであり、税法上課税されない不動産(免税点未満=固定資産税の課税標準額が土地で30万円・家屋で20万円未満)については確認出来ないことより、やはり相続時には名寄帳の活用を前提とすべきであろう。これらを含めて改正・整理することで、相続人も初めて「義務付けられた相続登記をしなければならない不動産」について認識できるのである。
単に相続による不動産登記の義務付けだけを法制定するだけでは、登記「漏れ」が発生するリスクが決して無くなることはない。法制定に追加して制度自体も改正すべき点が多いのが事実である。
(雀庵)
明治20年発行の地券の表面・裏面